Message from MASUO
増尾好秋からのメッセージ…アメリカ/日本から

別の年を見る▼▲

増尾好秋からのメッセージ  [2006年]

本田竹広氏への追悼文と広告の写真はこのずっと下 クリックして↓ジャンプ

 

2006年2月1日
 

Jazz in 南レク レポート

昨年(2005年)8月に出演の第19回「Jazz in 南レク 2005」について。
 この文は昨年から書かれていて、もう少しでアップするところで
本田竹広氏の訃報があり、追悼文 を先にアップしました。

 本田君の事もあったし最近つくづく思うのは友の事です。僕は友達に恵まれているんだな。今でもいろんな違った時期の友達とつながっているんですよ。たとえば小学校時代の友達だったら地元新井薬師に帰りこちらから声をかけさえすれば会えるし、早稲田中学、高校の連中も時々僕の演奏している所に顔を出してくれるし、勿論大学のジャズ研の連中とは今でも相変わらずワイワイやっているし、貞夫さんのバンドに入ってプロになってからの人間関係もいろいろあって、とにかく友達ってとっても大切な物だと思うんです。僕は外国に住んでいるのでこちらでの人間関係も又いろいろあるんだけれど、24歳の青春期まで過ごした東京がなんといっても故郷。青春を一緒に過ごした友達は特別だね。一人で車をドライブしている時などにふと友の顔が思い浮かぶときがあって、どうしているんだろうとか考え始めると何か楽しくなって来てつい声を出して笑ってしまったり、何とも心があったまるんです。みんなに会いたいな。
 ところで今日2月1日は貞夫さんの誕生日。サダオさん誕生日おめでとうございます!今でもサダオさんと話すときは胸がドキドキ。いつだったか会話の中で「マスオちゃんとは一生の友達だと思うし」なんて言ってくれてもう嬉しくて嬉しくて。サダオさんいつまでも元気でやって下さいね。お~いチンさ~ん!! How are you !!!!!!  なんてもう考え始めるときりがないんです。

 昨年の夏のライブレポート楽しく読みました。でも肝心の南レクJazzフェス レポートがなかったので僕が自分で書いてみる事にしました。愛する友の一人 岡田勉君が毎年自分の故郷、四国愛媛県城辺でやっているコンサートです。今回で19回目との事、岡田君から前から聞いていたし、彼の故郷に行けるし、夢が膨らんでいたのでとっても楽しみにしていた仕事だったんです。プログラムにはこの様に書いてあります。

Jazz in 南レク 2005 (南レクのサイト)
  8月13日(土曜日)  開場 17:00  開演 18:00~

出演者
● 南宇和高校吹奏楽部

● 坂田明 Mii
  坂田明、黒田京子、バカボン鈴木

● 南レク Super Band featuring 増尾好秋
  渋谷毅、峰厚介、増尾好秋、岡田勉、村上寛

 8月12日 8:30起床。ホテルから名古屋空港へ。前日は名古屋のライブハウス『ラブリー』。ギターの岡安君がわざわざ東京から駆けつけて来てくれてその心意気に感動。大変だったこの数年を乗り越えた後の心の平和が有るのか、しっかりしていて落ち着いている彼の演奏は本当にすばらしかったです。名古屋からバンド全員飛行機で松山へ。松山空港で東京から来る坂田明トリオを待つ事2時間。全員そろった所で一台のマイクロバスに乗って城辺へ出発。ちょっと走って松山を出た所でさっそく前から話に出ていたおいしいうどん屋さんへ。そこで3時頃まで宴会。みんなは既に名古屋空港のレストランで朝からビールかなんかで始めているのですよ。僕は飲む人ではないのでみんなの飲みっぷりに感心しながら一途に鍋焼きトロロうどんを食べていました。いつ食べても讃岐うどんはうまい。やっと又走り出して右側に海が見えてくる。宇和島を通過する頃には全員おやすみ。僕は頭の上にあるスベリそうな岡田君のベースを手で押さえながら高くなったり低くなったりのくねくね路、西日でキラキラ輝く海を見ながらのドライブですっかり恍惚状態になっていました。岡田君はこの道を通って大学入試のテストを受けに東京へ向かったんだね。30年以上前の話だ。道もこんなに整備されたのはつい最近との事。

 岡田君と親しくなったのは15年位前になるのかな。勿論その前から彼の事は知っていたけれどその頃1990年頃、彼がしばらく New York に居たので演奏不足の僕の練習につきあってもらったりして交流が始まりました。僕はその頃演奏する機会があまりなかったし自分で何がやりたいのかわからなくなっていたし、とにかく何も考えず、何も気にせずにギターを弾きたかったんだ。そんな時に彼が出現したんです。同世代の日本人のミュージシャン岡田君との交流は新鮮だったしエネルギーを貰いました。こっちでの生活が長いし僕にはこんなフレンドシップが必要だったんだね。言ってみるなら彼に癒されたんだと思うよ。アメリカ人(New Yorker) とは全く違う彼の様なタイプの人間とそれまでつきあった事がなかった。気心が知れているというか、別に何も話さなくてもいい、何も気にしなくていい、無理せず格好つけずにそういうレベルで音楽出来るのが何とも嬉しかった。東京生まれの僕にとって四国愛媛県育ちの岡田君は何か根本から違うんだよ。本田君なんかもそうだったけれど、細かくなくて大きいのがいい。それに愛媛って字がいい、あったかくて。僕はどっちかと言えば都会より田舎の方が好きなんだけれど、岡田君は田舎なんか全く興味がなくて夜になると街の灯を見ないと落ち着かないんだって。面白いね。 

  さて走ること2時間、この半島を過ぎれば城辺という所で一休み。高台の海が 180°見える洒落た喫茶店。窓からは沖に三つの小島が見える。海の向こうは九州だ。店には Bill Evans のピアノトリオが流れているではないか。不思議な世界。ここから坂田君が運転手になって坂を下りながら町に入る。無事城辺グランドホテルへチェックイン。町唯一のホテルとの事、部屋の中にはエアコンがあるんだけれど階段の所が暑いのなんの、50度位。本当に。夕食まで時間があるので半ズボンに着替えて一人で散歩へ。ホテルの前に小川があってその向こうに古い江戸時代みたいな建物。後で聞いた所、昔からの造り酒屋との事。その川沿いに歩いて行く。町は夕方、人家が有るんだけれど人がいなくて静か。川にはほとんど水がなくて所々が水たまりになっている。雨が降らなくて水不足なんだね。ある所に来ると水たまりに逃げ場を失ったナマズみたいな魚とか小魚が沢山泳いでいる場所があって、自転車に乗って来たどこかのおじさんと一緒に可哀想だねなんて立ち止まって長いこと見ていました。だんだん暗くなって食事の時間もせまって来たのでホテルに帰る。飲み屋さんの座敷で会食。又宴会だ。地元でとれたカツオ、小魚、野菜とか美味。話が弾む。坂田君は呉の生まれ。例のミジンコの話になって興味津々。旅に出て田んぼなんかがあるとついつい離さず持っている携帯用の顕微鏡を出して調べてしまうんだって。僕の前に座ったバカボンさんは去年始めて一緒に仕事したんだけれど、彼の事は何も知らなかった。真言大学まで行ってお坊さんを目指していたんだって。人間は一人一人深い。ホテルに帰るともう12時近くになっていた。TVを見ると今日は九ちゃんの乗っていた日航機が墜落した20年目のアニバーサリィーだった。

《Jazz in 南レク 当日》

 13日。まだ時差ボケなので8時にパッチリ目が覚める。シャワーに入ったりのんびりして外に出たのが10時過ぎ。ホテルの下にラーメン屋さんがあったので早速ラーメンで朝食。実は昨日地元のスタッフの方から情報を得ていて今日は海に行くことに決めていたんです。海までは結構遠いのでタクシーを呼んでもらう。来てくれたタクシーの運ちゃんが又親切な人で走りながら観光案内してくれるんです。戦争中に墜落した戦闘機紫電改を海から引き上げて完全に修理して展示してあるとか、僕もそういうのが好きなんですけど、僕の目指す所は宇和海海中公園。水中展望船ガイヤナっていうのに乗るのが目的なのであります。船の底がガラス張りになっているやつ。目的地の海岸に到着。そこでチケットを買って30分おき位に出ている連絡船に乗って沖にある鹿島に渡るんです。船が来るまでコンクリートの桟橋に立っていると潮のにおいと荒っぽい潮風と波、海は男らしくてスケールが大きくて太平洋に直面している様なダイナミックな力を感じてすっかり感激。僕のヒーロー坂本竜馬のこと等連想して一人で良い気分になっていました。鹿島に渡ってガイヤナに乗りましたよ。あいにく曇り空だったのですが時々太陽が顔を出すと海底の景色が一変してカラーフルになる。ガイドのおじさんがあそこに泳いでいるのがしま鯛とかいろいろ教えてくれるんです。はこフグが半分寝ながら泳いでるみたいでカワイいこと。さあ帰りなのですがタクシーの運ちゃんから隣り町に行けば電話があるからとかバスもあるとか聞いていたので何とかなるだろうと非常に楽観していました。3時からサウンドチェックなので2時半にはホテルに帰っていなくてはとか少し現実の世界のことも考えるのですが道を歩いていても人っ子一人居ないし、隣り町らしき所に着いても公衆電話なんか全くなし。もうダメかとあきらめていたらなんと「城辺」と書いてあるバスが走って来たんです。乗客は僕とおばちゃんの二人。喉が渇いていたので運転手さんにちょっと待ってもらって自動販売機で買って来た冷たい「午後の紅茶」を飲みながら城辺へ。あ~なんてラッキーなんだろう。

《会場でのサウンドチェック》

 マイクロバスに乗って会場の大森山キャンプ場へ。丘を少しあがった中腹にある公園みたいな所で、丸くコンクリートで作った座席の一角をステージにしている。頭の上には木の枝が覆いかぶさる様に茂っていて、気に入ったのは野外の会場なのにお客さんがステージの近くに座ること。新品のピカピカのピアノが置いてあって調律師さんがしきりに調律している。太陽が当たって暑くて湿度も高いし大変だ。そのステージの裏に階段があって、一段低くなっていてそこがみんなの楽屋になっている。とにかく暑い。一息ついてからセットアップしようとさっきからアンプをさがしているのですがどこにもなし。悪い予感がしてスタッフにたずねると、みんなアレッといった感じで顔を見合わせるばかり、結局ギターアンプの事等全く考えていなかったのでした。それでは宇和島の方から取り寄せるとか話はいろいろ出るのですが、今日はもしかしたらマイクの前でアコースティックでやるのかと心の中で覚悟し始めていました。そんな時にスタッフの一人が練習用の小さいヤマハのアンプを持っているというのでとにかく一応問題は解決。まあいろんな事があるんですね。サウンドチェックも無事終わり帰りのホテルに向かうバスの中では岡田君推薦のかき氷の話題で盛り上がる。ホテルに楽器を降ろして岡田君に案内してもらってバンド全員で昔ながらのかき氷屋さんへ。とろとろ歩いて10分位で到着。話に聞いた様に店の半分が床屋になっていて何ともひなびて昔のままで感服。僕はアズキとミルクのやつを注文。僕の足元には大きなオレンジ色のトラネコがドタッとひっくり反って昼寝をしている。暑くてまいっちゃっているのか "おいネコさん" なんて触っても全く動じない。食べきれないんじゃないかと思うほどの量の氷が出てくる。懐かしい味でおいしかった。食べていると身体が涼しくなってくるんだね。店の人にネコの事をたずねると、野良ネコなんだって。どこかで毒を食べてしまって死にそうになっていたのでこの店の人が助けてあげて今は回復中との事。親切な人々なのだ。太って大きくて寝かたが可愛いので、ヒロシが携帯でさかんに写真を撮っている。大の男が5人、午後のひと時、床に転がっているネコを眺めながらかき氷を食べている。何と平和なんだろう。一生忘れられない図でありました。

 ホテルに帰り一休みしてから又下のラーメン屋さんへ。チャーハンとギョーザで演奏前の腹ごしらえ。渋谷さんが先に来ていたので一緒に座る。渋谷さんと仕事するのは Jirokichi で始まり次がラブリー、今夜が3回目という事になりますが、今回の一番の収穫は渋谷さんと演奏出来た事だと思うようになっていました。昨年の秋(※この南レクの後の秋)、ケイ赤城と話している時に渋谷さんと一緒にやってどうだったという話になったんです。その時に僕が言ったのは渋谷さんはものすごく波長が長い人なのではないかという事から始まって、表現するのが難しいんだけれど、簡単に言ってしまえば落ち着いているという事、彼なら極端な話 8小節に一発の音でも間が持てる人だと思った。なんて話をしていたんですよ。東洋的美とでもいうのでしょうか、僕も数年座禅でも組んで座っていれば少しはそういった心境に近づけるのではないか。渋谷さんがバンドの中にいると不思議な安心感があってよかったんですね。それにこのバンドには仏様みたいな峰さんがいるし、よくぞ名付けた 南レク Super Band ! (岡田君が考えたのかなぁ?) 音楽は不思議な物ですね。人間が集まって音を出して行く。その音に感じて又次の音を出す。そうやっているうちにどんどん昇って行くんだね。エクスタシィーだ。渋谷さんの出す音にすごく僕は感じたんです。

《 本 番 》 

 会場に着くと300人位かな人でいっぱいだ。すでに坂田君のバンドがやっている。サックス、ピアノ、ベースの無駄がない編成。長い事一緒にやっているバンドなんだろうね、とてもまとまっている。エレクトリックベースだけをひくバカボンさんだと思っていたら今夜はアコースティックベースだ。いい音している。ギャピーみたいなアバンギャルドな音楽から手拍子の民謡まで、このユニットの音楽は自由自在だ。彼らの音楽を聴きながら四国の片田舎で人々がこのように音楽を満喫しているなんて日本は何と文化が高いのだろうと一人感激していました。いよいよ僕たちの出番。ギターをもってステージへ。お客さんを見るとみんな "今晩は" という感じで和気あいあい。夏の夜、人々のざわめき、照明の具合とか、子供の頃行った盆踊りを思い出してしまった。やはり期待していた宇和島からのギターアンプは届かなかったのでヤマハのやつで。でも悪くなかったよ。アっという間に僕たちのセットも終わり最後は全員でサマータイム。拍手が鳴り止まずもっとやるんだろうと思って後ろを見るとみんなはサッサと消えてしまってステージは僕一人。しょうがないので何かポロポロ弾いていたら岡田君が戻って来て二人で2曲。一晩中でもやっていたかったね。というわけで夜も更けて無事 Jazz in 南レク も終わりました。みんなが喜んでくれたので良かった。 すでにステージの後ろでは宴会が始まっていてる。蚊除けのために大きな扇風機が回っていて、テーブルの上には食べきれないほどの食べ物がローソクの灯にユラユラ。夜中の1時頃まで飲んだり食ったり話が尽きなかった。(お~いケージ!君の話題で話が盛り上がったんだよ。) 岡田君、本当にすばらしい時をありがとう!

P.S. 岡田君のお母さんが僕の事をほめてくれたんだって。みんながいなくなってしまったのに残ってちゃんと2曲もやったのでえらいと言ったそうです。嬉しかった。

2006年1月15日
 

本田竹広 殿

本田竹広氏, 1月12日に急性心不全で他界。
新聞広告の写真を下に追加(1/27)

 逝ってしまったんだね。無念。 昨夜は泣いたよ、久しぶりに。
残念な事も沢山あるけれど 今は君の事を考えるととても温かい気持ちになれるよ。 この数年何度か一緒に音楽出来て良かった。僕がピットインで珠也のバンドで出演していた時、君が途中から飛び入りで参加したね。今でもよく覚えているんだけれどすごかったな。台風が飛び込んで来たみたいだったよ。音楽が途端に一変。そんな野生の怪物みたいな君は僕には昔から不思議な存在だったよ。同じ人間なのかしら、どこからそんなエネルギーが出てくるのかと思っていたよ。でもその裏にとてもデリケートなところもあったんだよね。
 僕が今座っている部屋の壁には額にはまった一枚の写真が飾ってあるんだ。それは僕がまだ日本にいた1970年頃の写真で大きく新聞全面に乗ったインスタント コーヒーの宣伝です。 左から チンさん、本田、僕、サダオさん、今井さん、プーさん、フミオちゃん と並んで、コーヒー カップを片手にピアノの前に立っている写真だよ。みんな髪が長くて 特に本田と僕は肩まで垂れてる。君なんかは髪を頭のてっぺんで結わえているので まるでチョンマゲだね。みんな若くて傑作なんだ。よく見ると一人一人ユニークでキャラクターがあってまるで七人の侍だ。懐かしい六本木のソニースタジオだよ。
 来月2月に Jirokichi の仕事のためだけで日本に行くんだけれど その理由の一つは Jirokichi のオーナー マコさんと、 Jirokichi にまつわるミュージシャン達の友情を感じるからなんだ。 Jirokichi から声がかかると何が何でも行くって気になってしまうよ。僕が一時期人前で演奏する事に尻込みしている時に、何気なく後ろから 後押してくれて何回も演奏する機会を作ってくれたりね、僕は一緒にいるだけで つつまれていたよ。本当にすばらしい仲間に囲まれていて幸せ者だ。最近も僕が日本に行くと必ず僕たち Jirokichi でセッション していたよね。 Jirokichi とその音楽仲間は、僕にはとってもとっても大切な宝物なんだ。そんな訳で僕の中では Jirokichi と君が ダブっている部分があって君の事を考えると Jirokichi を思い、 Jirokichi の事を考えると君を思う事があるんだ。 この2月の Jirokichi は弔い Live だね。もう君のそのガラガラ声が聞けないのかと思うと寂しいけれど、君の事を考えると何か楽しくなって 勇気が出るよ。君と君の音楽を愛していた人々や仲間の心にはきっと君のスピリットがいつまでも生き続けて行くよ。楽しい思い出が沢山有るし 峰さん、岡田君、ヒロシみんな元気だし、僕たちこれからも、もっともっといっぱい音楽やって行くからね。 君を見習って僕達も最後までやりたい放題やって自由にどこまでも飛んで行くから。
本田君、暫しの別れ。 又な。

 増尾好秋

朝日新聞に載ったコーヒー マキシムの広告
左から: 鈴木良雄(b), 本田竹広(p), 増尾好秋(g), 渡辺貞夫(sax), 今井尚(tb), 菊地雅章(p), 渡辺文男(ds)
昭和46年(1971年)4月19日月曜日の朝日新聞に載った全面広告.  撮影:高梨豊

追悼文掲載後に写真を見たいという声があり、この写真をここに追加.
当時増尾さん自身はこの広告を見た覚えはなく、お母様がとっておいてくれたとのこと。

2005年 月 日

(2005年)

※2005年に書かれた文はありませんが、2005年「Jazz in 南レク」についての2006年2月付記事は当ページ上のほう上にあります。

▲ページ最上部へ